比丘尼城跡(びくにじょうあと)
種別 新城市指定史跡
指定年月日 昭和38年1月1日
所在地 新城市中宇利字麻布 地内
説明
比丘尼城跡は、宇利城跡(県史跡)から1.8km離れた南方に所在し、標高約220mで比高差150mほどの山頂に位置している。
遺構は、曲輪や土塁状の高まり、堀跡などが良好に残存している。主郭の規模は50×30mを測り、主郭北側の一段低い位置に曲輪がひとつ配置されている。また、南側は帯曲輪状の平坦地が巡り、堀(横堀)と評価されている。虎口は曲輪の北、東、西に推測され、西側は堀切や竪堀が配され東側より防備性が高いものと思われる。
築城時期や城主は不明であるが、城の北側の川の対岸に『滝山くずれ』という墓があり、これは比丘尼城が落城した時に逃げた者たちが殺害された場所であるという伝承が残されている。また、宇利城に対し、有事の際に子ども、女性などが避難した場所として機能した城であるとも伝えられている。さらに、「比丘尼」という名から城主が女性であったとも言われている。
愛知県と静岡県との県境に所在するこの城は、南北朝時代に遡る可能性のある城とも言われている。延元年間に駿河、遠江両国の守護であった今川氏とともに三河国の守護 高師秦は、北朝方に属していた。しかし、遠江の井伊谷を中心とする地域は、南朝方の勢力拠点となっていた。このため、三遠国境付近や浜名湖周辺では、延元2年(1337)や延元4年(1339)には、北朝方と南朝方の勢力が入り乱れる激しい攻防が繰り広げられた。比丘尼城は宇利庄に位置し、ここの領主は北朝方の足利直冬であった。尊氏の子である直冬は、尊氏の弟であった直義の養子となった。しかし、尊氏と直義とは仲が悪く、直義が正平4年(1349)に南朝方につくと、直冬も南朝方に味方するようになりました。
このような地域性と『滝山くずれ』との伝承から郷土史の観点では、この城は南北朝期に存在したのではないかと考えられている。
また、遺構に戦国期のものに見られる特徴が残っていることから、熊谷氏の居城となっていたものが宇利城を築城したことで城主がそこに移ったため、その支城となったとも言われており、この城は南北朝時代、戦国時代の2時期に使用されていたことが推測される。
現地は植樹された桜の名所「世界の桜の園」の園内にあり、園内の『桜』や『愛の鐘』などを散策しながらいくことができる。また、山頂からの宇利城跡への眺望はすばらしい。