医王寺山武田勝頼本陣跡(いおうじやま たけだかつよりほんじんあと)
種別 新城市指定史跡
指定年月日 平成5年7月13日
所在地 新城市長篠字碁石 地内
説明
武田勝頼本陣は、天正3年(1575)の長篠の戦いの時に医王寺の裏山に勝頼が長篠城攻めの際に陣城として築いたものとされる。
この陣城は、丘陵の先端部で比高差約30mをもつ標高約120mの位置に立地している。場所は、約600mの南方に位置する長篠城に睨みを利かすような位置にあたり、また、長篠城包囲における武田軍の各陣をくまなく展望することができる。さらには西方への視野も広がり、豊川下流方向からの長篠救援の軍が近づくことも視野に入れることができ、この山の頂部での築城は長篠包囲の拠点であり、救援軍を迎え討つ拠点として家康との対決を視野に入れた選地でもあったことが考えられる。
曲輪は丘陵頂部にあり、直線的に三つの曲輪が東西方向に連なり、陣城の主たる防御機能は切岸で構成される。中心となる曲輪の西側虎口側に土塁状の高まりが認められ、西側の曲輪からの敵の侵入に対して、攻撃性を高めた造りとなっている点、各曲輪を結ぶ通路が狭くなっている点、東側曲輪の比較的大きな平坦地には兵の駐留も考慮できる点などから、南側の麓にある医王寺からの侵入に対して中心となる曲輪への防備に優れた計画的な縄張りを持っていたと評価することができ、縄張りの工夫を知るうえで、見学の見所ともなっている。
さらにこの陣城は、永正11年(1514)に創立した医王寺の境内地内とその背後の裏山に構えられたともされ、「三川日記」では、武田軍の長篠包囲において本軍の武田勝頼らは医王寺山に3,000のが陣を配置したという記述が見られる。しかし、山麓の医王寺境内地内には陣城と思われる遺構は確認されておらず、広島市中央図書館・浅野文庫所蔵の諸国古城図のうち、「勝頼陣城」として描かれた絵図には、山麓下の医王寺とともにほぼ現況に等しい絵図として記録されている。
この城は、三河に幾度となく進出した武田軍の陣城のうち小規模でコンパクトながら武田勝頼の本陣として入念に縄張りが構築され、天正3年に限定される陣城でもあることから、その価値は高い遺構であるといえる。