端城城跡(はじょうじょうあと)
種別 新城市指定史跡
指定年月日 昭和33年4月1日
所在地 新城市杉山字端城 地内
説明
国道151号と国道301号が交差する付近に端城城跡は、位置している。標高約55mを測り、現況は畑地や宅地となっている。
範囲は、明治の地籍図より90m四方の方形の区画が推定されている。城主は、永禄5年(1562)に新城古城から移った菅沼定氏が知られている。
この城は、永禄5年に築城され、正保2年(1645)に廃城となった。
別名:杉山端城
歴史
千郷村史によると、永正2年(1505)もしくは3年(1506)からこの地の領主は大谷城主の菅沼定忠となっており、永禄5年には定忠の孫の端城城主の菅沼定氏が領主とされていることから、定氏が新城古城から居城を移した場所は一族が支配する領内でされたことが分かる。定氏の兄の定継も大谷城から石田の新城(新城古城)へ居城を領地内で変えている。
このようなことから、大谷の城を御城(ごじょう)、石田を新城(しんじょう)と呼称し、さらに3番目に築城されたこの城は端城(はじょう)と呼ばれるようになったようである。
さらに、定氏は同領内に築城した道々目記城(どどめきじょう)に移っている。前述の4城ともに遺構の残存状況が低いため詳細な縄張りは不明であるが、石田合戦で新城古城が今川方の勢力の攻撃を防いでいることから、防御性の高かった縄張りを有していたものとも思われる。また、いずれの城郭も単郭式であることが現況や地籍図等から推測されることから、城主の普段の居住地であった性格のものである可能性が高いと考えられる。
この城の周辺地には、一部の家臣が屋敷を構えられ、定氏以後、高木、山口らの入城とともに継続して家臣の居住地が設けられていたようである。正保2年(1645)の廃城後は、そのまま廃墟として放置されたことが、寛保元年(1741)に城内の東南部を畑地に、明治41年(1908)に西南部を畑地となったという記録から知ることができる。
端城:端城には「支城」という意味もある。