新城城跡(新城陣屋跡)
歴史的背景
新城城は、天正3年(1575)の長篠の戦いで勝利した奥平貞昌が新たに城を築城し、長篠城から移り住んだことがその始まりとされています。
この城は、領主の移封に伴って城主の交代がしばしば起こり、また途中、公領地にもなりました。
しかし、慶安元年(1648)に陣屋が新城城跡地に置かれると、野田城の城主であった菅沼氏の子孫によって治められ、明治維新までその支配が続けられることとなりました。
この間、新城陣屋(新城城)の北方地には武家屋敷や町屋が形成され、豊川の舟運や伊那街道の交通路を始め、馬がまるで波のように次から次へと行き交う『山湊馬浪』と呼ばれるような人や物流の拠点として栄えることとなったようです。
陣屋の廃止後は、建物や土塁などの構築物は破壊または移設が行われて更地となり、その後、畑地に利用され、大正3年(1914)に現在の新城市立新城小学校の前身となる学舎が建設され、以後学校用地として利用されて現在に至っています。
所在地 新城市字東・西入船地内(新城小学校地内)
発掘調査等 城郭(陣屋)中心部に隣接した北東箇所の武家屋敷地で実施した調査では、素掘りの穴蔵(地下室:ちかむろ)や簡易的な建物が並ぶ倉庫的な空間(蔵跡)があったことが考えられる遺構が確認されました。
確認された遺構の年代は、出土した陶磁器等の遺物によって、18から19世紀を中心にした新城陣屋の頃に関係の深いものであり、新城城に伴う戦国時代から江戸時代初期に遡るものは確認できませんでした。
また、最近の発掘調査は、新城市字東入船78-1(旧新城保健所地)で旧新城保健所建物取り壊しに伴う記録調査を行いました。
調査結果の概要
新城城(新城陣屋)の二ノ丸北側堀の改修が明らかとなりました。
調査によって、2つの堀跡が見つかり、1つは少なくても江戸時代後半から幕末には存在し、もう1つはそれ以前に造られた堀跡であることが判明しました。このことから、堀は改修されていたのではないかと考えられました。